2025年5月10日土曜日

『手袋を贈る話』

とある中世の小国のこと。
第三王女セレナに密かな恋情を抱いていたのは、文官家系の次女、レティシアだった。

禁じられた想いだと、わかってはいた。
それでも彼女は、セレナが一度だけ身につけた手袋を、ある日こっそり譲り受けてしまった。

「気に入ったなら、あげるわ。もう使わないから」
セレナは何の含みもなくそう言った。だがその無邪気さは、時に残酷だった。

レティシアはその手袋を、まるで王女の手そのものを抱くかのように、肌身離さず持ち歩いた。
儀礼にも私室にも忍ばせ、手を合わせ、香りを確かめ、ぬくもりを思い出しては、そっと目を閉じた。
それは決して届かぬ恋の代わりであり、彼女だけの静かな聖遺物だった。

だが、時は残酷に日々を削った。
結婚が決まり、領地の管理や政務の責務も重くなる中で、彼女はふと気づいた。
これはもう、自分の中で過ぎ去ったものなのだと。
未練だったのだ。夢だったのだ。
そう納得し、ある静かな午後、レティシアはその手袋を馴染みの酒場の娘に手渡した。

「気になるの? あげましょうか」
微笑みとともに差し出されたそれに、ユリィナは言葉を失った。

ユリィナは、レティシアに密かに想いを寄せていた。
貴族と平民、交わることのない立場だと知りながらも、彼女の言葉や視線に胸を焦がしてきた。
だからこそ突然の贈り物に、目を疑った。
震える手でそれを受け取り、夜、誰もいない部屋で、そっと抱きしめた。

指先にかすかに残る香水の気配。
内布に刻まれた手のひらの跡。
けれどそこには、ユリィナの知るレティシアの香りだけではない、もうひとつの気配があった。

それはもっと遠く、もっと華やかで、
もっと触れてはならぬ何かだった。

身分。地位。記憶。想い。
触れてはいけない、それでも触れてしまいたくなる女の輪郭が、そこには確かにあった。

ユリィナはようやく理解する。
これは、レティシアがかつて愛した誰かの痕跡なのだと。
そしてその誰かに、どうしてもなりたかった自分自身を。

それでも彼女は、その手袋を胸に当て、目を閉じた。
たとえ代わりであっても。
誰かの代わりの、さらにその代わりであったとしても。
その愛に触れたような気がした瞬間は、決して偽りではなかったのだから。

そして思う。
もし、代替の代替で満たされる恋があるのなら――
それもまた、恋のかたちなのだと。

静かな夜。
ユリィナは、手袋を丁寧に折りたたみ、古い木箱にしまおうとして、ふと手を止めた。
明日また来るだろう、店の常連の少女の顔が頭に浮かぶ。

よく気がつく子だ。
時々、視線がまっすぐすぎて困る。
何かを言いたげで、でも言わない。

ユリィナはそっと笑った。
箱を閉じずに、そばに置く。

誰かに渡されたものは、誰かに渡してもいい。
それが“想い”でなくなったあとなら、なおさら。

そして、あの手袋にはまだ、
誰かのことを好きになれる気配だけが、ほんのわずかに残っていた。