とある中世の小国のこと。
第三王女セレナに密かな恋情を抱いていたのは、文官家系の次女、レティシアだった。
禁じられた想いだと、わかってはいた。
それでも彼女は、セレナが一度だけ身につけた手袋を、ある日こっそり譲り受けてしまった。
「気に入ったなら、あげるわ。もう使わないから」
セレナは何の含みもなくそう言った。だがその無邪気さは、時に残酷だった。
レティシアはその手袋を、まるで王女の手そのものを抱くかのように、肌身離さず持ち歩いた。
儀礼にも私室にも忍ばせ、手を合わせ、香りを確かめ、ぬくもりを思い出しては、そっと目を閉じた。
それは決して届かぬ恋の代わりであり、彼女だけの静かな聖遺物だった。
だが、時は残酷に日々を削った。
結婚が決まり、領地の管理や政務の責務も重くなる中で、彼女はふと気づいた。
これはもう、自分の中で過ぎ去ったものなのだと。
未練だったのだ。夢だったのだ。
そう納得し、ある静かな午後、レティシアはその手袋を馴染みの酒場の娘に手渡した。
「気になるの? あげましょうか」
微笑みとともに差し出されたそれに、ユリィナは言葉を失った。
ユリィナは、レティシアに密かに想いを寄せていた。
貴族と平民、交わることのない立場だと知りながらも、彼女の言葉や視線に胸を焦がしてきた。
だからこそ突然の贈り物に、目を疑った。
震える手でそれを受け取り、夜、誰もいない部屋で、そっと抱きしめた。
指先にかすかに残る香水の気配。
内布に刻まれた手のひらの跡。
けれどそこには、ユリィナの知るレティシアの香りだけではない、もうひとつの気配があった。
それはもっと遠く、もっと華やかで、
もっと触れてはならぬ何かだった。
身分。地位。記憶。想い。
触れてはいけない、それでも触れてしまいたくなる女の輪郭が、そこには確かにあった。
ユリィナはようやく理解する。
これは、レティシアがかつて愛した誰かの痕跡なのだと。
そしてその誰かに、どうしてもなりたかった自分自身を。
それでも彼女は、その手袋を胸に当て、目を閉じた。
たとえ代わりであっても。
誰かの代わりの、さらにその代わりであったとしても。
その愛に触れたような気がした瞬間は、決して偽りではなかったのだから。
そして思う。
もし、代替の代替で満たされる恋があるのなら――
それもまた、恋のかたちなのだと。
静かな夜。
ユリィナは、手袋を丁寧に折りたたみ、古い木箱にしまおうとして、ふと手を止めた。
明日また来るだろう、店の常連の少女の顔が頭に浮かぶ。
よく気がつく子だ。
時々、視線がまっすぐすぎて困る。
何かを言いたげで、でも言わない。
ユリィナはそっと笑った。
箱を閉じずに、そばに置く。
誰かに渡されたものは、誰かに渡してもいい。
それが“想い”でなくなったあとなら、なおさら。
そして、あの手袋にはまだ、
誰かのことを好きになれる気配だけが、ほんのわずかに残っていた。